ちょっと古い話ですが、1990年代前半のある時期、私はアメリカ人オーナー企業のある支店のトップでした。高コスト体質、サービスの質の低下、本部と現場の意識の乖離、人材の流失などの問題を抱えたまま業績は悪化していて、バブル崩壊後の会社はまさに崖っぷちでした。
翌朝はアウトワード・バウンド方式の野外トレーニングから始まりました。高さ4メートルほどの垂直に立てられた丸太の頂点にやっとのことで立ち上がり、数メートル先に吊り下げられているタイヤに飛びつく実習だとか、地上3メートルほどの高さに貼られた1本のロープの上を渡ったり、3メートルほどの高さの垂直の壁を全員で協力し合って乗り越えたりだとか、私にとっては好きな分野でもあり、面白いトレーニングでした。その日の夜、汗をかいた後で仲間と飲んだビールは美味かったのですが、「面白かった。・・・でもそれで何なの?」という内なる会話が私の中では起きていました。お互いの親密感は向上しましたが、まだ仕事上のチームビルディングとのつながりが起きていませんでした。
3日目はとても広い部屋を使ってミーティングが始まりました。なにがきっかけになったのか、論点は社内の人間関係の葛藤に向けられていきました。コンサルタントの対応はここでもエレガントでありプロフェッショナルな印象でした。しかし、ここで人間関係の未完了な感情にフォーカスしたことは結果から見ると間違っていました。オーナーへの怒り、特定の部門の過剰な優遇への不満、誰かの誰かに対する不信感、健全ではない人間関係、未完了なままの否定的な感情が連鎖的に吹き出ていきました。コンサルタントがその方向にリードしていました。しかし私には不健康な人間関係の膿を出している非生産的でくだらないプロセスにしか思えませんでした。あまりのくだらなさに腹を立てていましたが、表現はしませんでした。(表現すべきでした!)その状況にうんざりした私は「今まで顧客のためにという責任感から自分を奮い立たせてきたけれど、そろそろこの仕事から卒業させてもらう時期が近づいてきたかな」と思い始めている自分に戸惑いを感じていました。
4日目は前日の完了のプロセスから仕事へのコミットメントへと焦点が移っていきました。しかし、心身の疲労が残る中での参加者たちのコミットメントは表面的なものだったのでしょう。目覚ましい成果を作りだすための戦略や意識にフォーカスが当たっていないようなミーティングでは革新的なアイデアが出るはずもありませんでした。型どおりのプランを各部署で作り、解散しました。見送ってくれたオーナーの表情は期待と不安が混じったものでした。
様々な思いを持って参加者たちは仕事の現場に戻りました。そうして多くのリソースをつぎ込んだスタッフミーティングでしたが、業績は容易には改善しませんでした。
今あらためて振り返ってみると、そのときのスタッフミーティングは起死回生の会議になる可能性があったと思います。今の自分ならば貢献できることは山ほどあります。しかし、その時の私にはコンサルタントやオーナーが間違ったことにフォーカスを当て続けているプロセスを中断する力がなかったのです。これはおかしい、何かが間違っていると感じてはいましたが、メンバーとして問題の渦中にいると気づきが起きてこなかったのです。実際、俯瞰する視点を持たない限り、有効な気づきは起きません。残念ながら成功体験にはなりませんでしたが私にとっては、うまく機能しなかった「崖っぷちのトレーニング&ミーティング」はとても大きな学びとなりました。そして葛藤や対立が起きた場合、どのように対応することが効果的なのかについて強い関心を持って探求を始めるきっかけにもなりました。その意味で、あのミーティングに参加できたことにはとても感謝しています。
組織の中では葛藤や対立が起きるのが普通です。チームに葛藤が起きなかったら、それこそ問題です。それはチーム形成のプロセスが遅れているというサインだと思ったら良いでしょう。ところが一般的に「対立は悪いものだ」という誤解があります。そのように信じている人々は葛藤や対立から意識を逸らして対処しようとしています。そして解決を先延ばしするのです。
対立は必ずしも悪いものだとはいえません。大事なことは対立や葛藤の要因となっている何にフォーカスを当て、そしてどのように対応するかなのです。それはグループが真のチームに変容していくプロセスで避けては通れないことなのです。
≪文責:田近秀敏≫