コラムNo.7 「揺るがないつながりを感じる」

10年前、大阪から仙台の学校に赴任した。

大阪で経営方針に反発し、腐っていた時期での辞令で退職することも考えたのだが前年に大阪から仙台に主任として赴任していたメンバーから「仙台が大変なので助けてください」とメッセージが。

折れそうになっていた気持ちに「何かできるかも?」と少し心に火がついたような気がして仙台行きを決断した。

当時、勤務していた学園は医療事務系の専門学校を全国に展開していたがスポーツ部門の学校の立ち上げに誘っていただき8年間で全国に5校のスポーツ系専門学校が開校していた。

大阪がスポーツ系の学校のスタートだったため、カリキュラムや教科書の選定、実習その他、ほとんどが大阪主導で進められていた。

実は、大阪の学校がスタートする1年前に仙台の医療系の学校の学科の一つとして非常勤で専門家を集めインストラクターやトレーナーの養成を始めていた。

仙台では、大阪主導のやり方に不満を持っているらしく、連絡をくれたメンバーの「大変です」は非常勤とのやり取りが主な理由のようだった。

赴任初日、明らかに歓迎されることは無いと不安を感じながら出勤したのを今も鮮明に憶えている。

初出勤の日、歓迎会と称して食事に誘われた。

乾杯もそこそこに、非常勤のリーダー格から「お前はどんな学校を創りたいと思っている。

そして、学生に何を伝えたいと考えているのか」と質問をされた。

どうやらこれで赴任してきた者や新人はやられてしまうらしいのだが、

モチベーションの下がっていた私にはビジョンやミッションを再確認する素晴らしい機会となった。

その後、朝までどんな学校を創るのか?どんな学生を育てるのか?みんなで語り合った。教育への想いはまさに自らの生き方であり、その人の在り方そのもので、人生を通してやり続けていくミッションであるという想いを共有する時間を持つことができたのである。

その後、学校のイベント・学生指導など休日であっても積極的に参加していただき、終わってみれば学生募集目標を大きく上回り上限一杯のインセンティブを手にすることになった。

私は結局一年で仙台を去ることになったのだがそれ以降も交流は続き、ビジネスでも何かと相談をしお互い行き来しながらセミナーの開催などを行っていた。

2011年3月11日東日本大震災が起きた、国内観測史上最大のマグニチュード9.0という未曾有の大災害。

仙台のメンバーに電話しても誰もつながらない・・・・

テレビをつけると、どのチャンネルでも速報が流れ不安ばかりが増していく。

転職して東京に出てきているメンバーと連絡を取り合いながら電話やメールで安否確認しているうちに一人からメールが入った。

12日、リーダー格であった先生一人を除き無事が確認できた。

仙台市内は比較的動けるらしく、ガスボンベや水をお互い運んだりしながら過ごしていると自宅の電話から連絡が入る。

東京のメンバーとは一日に何度も連絡のやり取りをする。

「あと一人・・・・」

「職場に見に行ったら車がおいてあったらしい」

「家に行ったら奥さんの車が無かったので無事でいて出かけているのでは」様々な情報が入ってくるが依然、安否はわからない。

5日目になり、さすがに気が滅入っていたとき東京から電話があった。

「無事が確認されました」

「ありがとう」それ以上お互い何も言わず黙っていた。

夜になりその先生からメールが「心配かけました。大きなゆれの中で身体の中からメラメラとエネルギーが沸いてきました」と相変わらずの内容のメールが届き、やっと気持ちが落ち着いた。

「今日は神に感謝をしながら眠ります」とメールを返したら、「私は良き友に感謝しながら眠ります」と返してくれた。

状況は今も頻繁に連絡が入ってくる。仲間たちは助け合って過ごしている。

私は何もできずに関西にいる。

仙台を離れて10年、ビジョンをまさに己の「在り方」として共有したチームはいつまでも強いチームであり続けるものだと確認することができた。

一日も早く復興し、みんなに会えることを今は楽しみにしている。

文責<鴨井啓>


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